アイスクリーム

「大人になっても好きな物」のひとつとしてあげられている物。

小さい頃、病気になったら買ってもらえたアイスクリームをなつかしく思い出すことがあるという吉行さん。

お気に入りは神楽坂の田原屋のもので、卵の黄身が多いさくさくしたタイプだったとか。

ちなみに、田原屋のアイスクリームが売れてしまって、買ってきてくれたのが別の店の、白い、さくさくしていないタイプだった ときはかなり落胆したそうです。



愛の嵐

ダーク・ボガード、シャーロット・ランプリング主演、リリアナ・カヴァーニ監督の映画。

女性監督独特のものを持っていて秀作、 とは吉行さん談。



赤い玉

「赤い玉がポンと出る」とは? これは、一種のワイダンになりますな。

というわけで、ここではあえて省略。

シューと煙が出るというトコロに哀愁と愛嬌を感じる説です。



赤線・青線

吉行さんとは切っても切れない場所。娼家があり、娼婦たちと交流できる地帯を指す。

売春が禁止された昭和33年3月31日を 最後に消滅した世界。

結果、売春が複雑な形になったり、他にも悪影響がいくつも出た、というお話だが・・・それは、また、別の、話。



阿川弘之

作家。
大正9年(1920)12月24日生まれ。

平成27年(2015)8月3日死去。享年94歳。


出身:広島県広島市(広島県名誉県民)
東京帝国大学文学部国文科卒業後、海軍予備学生として海軍に入隊、大尉まで昇格。


戦後は志賀直哉に師事し、1946年に文壇デビューを果たす。
代表作:「山本五十六」「志賀直哉」「雪の進軍」「食味風々録」など。

吉行さんの友人で、コイコイ仲間。


やさしく、細かい気遣いが各界の人々から絶賛される吉行さんが、辛辣なことや思ったことをそのままポンポンポン!と言えた 数少ない相手の1人。

平成11年(1999) 文化勲章受賞


阿川さんのギャンブル好き・乗物好き・食いしん坊は超有名ですね。


個人的には、阿川さんのエッセイが好きです。

特に食べ物に関するエッセイは絶品。
カレーライスやマティーニ、自家製弁当の話なんか、読んでるだけで涎が出ます。

最近は、お嬢さんの阿川佐和子さんの方が有名という巷の噂ですが、やはり実力は父君の方が数段、いえ数十段は上のようです。



芥川賞・芥川賞候補

吉行さんが芥川賞を受賞したのは1954年7月、清瀬病院に入院中のこと。

『驟雨』によって第31回芥川賞を受賞。 同時期の直木賞受賞者は有馬義頼。

受賞したときに新太陽社は解散していたが、当時の仲間が集まって、中野のモナミで受賞パーティーを開いてくれた、という。

吉行さんの隣に敬愛する詩人の田中冬二、もう一方の隣は高橋新吉という豪華メンバーで、「私は二人のはるか年上の詩人に 挟まれて、小説家としてスタートした」(『犬が育てた猫』)という豪華さ。

芥川賞の候補となったのは、1952年1月『原色の街』、7月『谷間』、1953年1月『ある脱出』の計3作品。

三度目の正直ならず、四度目の正直だった。

1972年より、同賞の選考委員となる。



あぐり

本名:吉行安久利。


明治40年7月10日生まれ。吉行さんの母。

平成27年(2015)1月5日死去。享年107歳。


1929年、麹町に当時としては美容院の先駆的存在である「山ノ手美容院」を開く。

2005年まで顧客数を限定して働いていらっしゃった、ということですから、あやかりたいものです。

さて。吉行さんへの影響は、実にさまざまな角度から見てとれる。

吉行さんが腸チブスで入院していたときのこと。

1年の休学を余儀なくされた吉行さんに「読書をしてみるといいと思う」と すすめたのは母親あぐりさん。

 

それまでの吉行さんは少年倶楽部や講談本くらいしか読んでいなかったので、これは読書をする契機になったといえよう。

そのときの様子を、吉行さんは次のように語っている。

 そして、私の耳にその言葉は、あざやかな色合いで飛込んできた。新鮮でもあり、またコロンブスの卵というか、 「なるほど、そういう世界もあったのだ」という心持である。文学の世界への入門書として母親の与えてくれた書物は、 石坂洋次郎の「美しい暦」と阿部知二「朝霧」の二冊である。

『私の文学放浪』より


そうやって読書を始めた吉行さんは、本を楽しく読むと同時に高校生活に憧れ、復学してからというものは熱心に高校受験の勉強に 励んだ、というから、どこに契機があるのかは分からないものですな。



麻布中学校

東京・麻布にある、吉行さんが学んだ中学校。
トップの成績で入学、そのままトップの座を守って卒業。
後輩に、北杜夫、山口瞳、奥野健男、同学年では小沢昭一、フランキー堺らがいる。

大学と違って中学の後輩にはいばれるからいい、とは吉行さん談。
対談でも、そのいばった空気が感じられておもしろいですよね。





1946年、終戦と同時に出した同人誌。
1号(3月・2000部)2号(7月・4000部)、3号(12月)でを発行し終刊。

7月に「世代」の同人となり、以後は「世代」を中心に活動することになった。

時代が時代なだけに印刷所が見つからなかったり、紙がなかったり、肝心の資金がなかったり、とないことずくめからのスタートで あったという。

新円が出ることにともない、紙屑同然となる旧円を集めてくることを条件に印刷を引き受けてくれる印刷所があらわれ、 印刷所の社長と吉行さんの面談が行われる。

 印刷してあげてもいいが、ともかく一度責任者に会いたい、と印刷所の社長が言っている、ということで、私が会いに行った。 対座して、大いに青年の情熱を披瀝したわけで、その場で正式に承諾してもらったときには、入学試験に合格したような心持になった。

『私の文学放浪』より


この印刷所は、大森の昭興社という会社で、当時の社長は岸田武夫氏であるとのこと。

記念すべき第1号(1946年3月25日発行)は、頁数制限のために32ページの小冊子であった。

「非売品」という文字の横に 「三円」と朱肉でハンコを押してあったということだが、このハンコは吉行さんが消しゴムで作ったものだとか。 作家になってから、書斎で消しゴムを削ることがよくあったというが、案外、スタートはこのへんかも?

ちなみに、佐賀章生の遺稿も第1号に掲載されている。

第2号からは天理時報社という印刷所に変わり、内容も48ページで3円50銭。出せば売れる時代は過ぎ、半分は返品になった。

第3号は、定価4円。

幻の第4号は、96ページ分の割付も完了した形で印刷会社に送ったものの、半年後に返品されて出版にはいたらなかったという。



アタック21

児玉清が司会のクイズ番組。

吉行さんは、この番組を50歳くらいから見だして、それ以来ほぼ毎週欠かさず見ていた。

パーフェクトゲームを楽しんだり、4つの角が赤・緑・青・白とばらばらで終わったりするのも愉しんでいたとか。

ゲーム性といい、色合いといい、司会の口調といい、吉行さんの感性にピッタリとくる番組だったのかもしれないですね。



アフォリズム

中学生の頃の吉行さんが愛読したジャンル。

芥川龍之介の『侏儒の言葉』や、ラ・ロシュフコーの『箴言集』などが その代表。

「人生というものの分からなさにたいしての焦りが、そういう短い言葉に向かわせたのだとおもう」 (『樹に千びきの毛蟲』)。

 

が、しばらくして、この手のものから遠ざかりはじめたという。

その理由は、 「気の利いたようで底の浅いところが多い」(『樹に千びきの毛蟲』)。

 

またそのうち面白く感じるようになり、 「底の浅いものにも、一面の真理はあるし、底が浅いというところにも面白さがある」(『樹に千びきの毛蟲』)と 思うようになったとか。

 「あれもよし、これもよしといったところがあって、酒席でそのことについて某人物に非難されたことがある」 (『樹に千びきの毛蟲』)・・・なるほど(笑)



アルバイト

貧窮した時代にしたアルバイトに、家庭教師、女学校講師(逗子の楠葉高等女学校。

現・聖和学院高等学校)、アシスタント (雑誌社「新太陽社」)などがある。その他、英文科の実力を生かして(?)翻訳も。



アレルギー

幼少の頃からずっと苦しんだ「飼い馴らした病気」のひとつ。
当時はアレルギーという言葉がなくて、鼻炎などの他の病名をもらっていた。


48歳くらいから、山手線大塚駅近くのアレルギー病院、本郷のアレルギー臨床研究所に、3週間に1度は通っていた。

アレルギーの人の皮膚をひっかくと、赤いミミズ腫れではなく、青白いものになるというが、一人で実験をした吉行さんの肌は 青白く腫れ、バーで披露したときには赤くなった。

さて、実際のところは?

ちなみに、吉行さんの体質は・・・(アレルギー検査の結果を含む)

駄目:絹、タケノコ、ジン、空気中に浮遊する五種類中三種類のカビ
大丈夫:ブタ草、ナイロン、木綿、ジン以外の酒、空気中に浮遊する五種類中二種類のカビ



アロエ

ハーブの一種。

万病に、しかもゼンソクにも効くから、と鉢植えを買ってきて「面白い味がするので毎日ムシャムシャ食べている」 (『石膏色と赤』)と言っていた。

 

吉行さんのゼンソクはアトピー性なのでアロエは効かない、と後で分ったのであるが、 それでもムシャムシャ食べていたとか。

ちなみに、アロエはヨーグルトに入れたりすれば別であるが、素材をムシャムシャ楽しむ といった趣のある植物ではあまりないと思われます。



按配

吉行さんがよく使ったことば。

初期では「塩梅」で、のちに「按配」に定着。一時は、ひらがなで「あんばい」の時期もあった。



安楽死

著作の中で、ガンに関しては「安楽死のほうがより人間的な解決法であるような気がする」と言っていたのは 1972年頃だろうか。

安楽死について、早くからその意義と必要性、諸問題に向き合っていた吉行さん。

 

結局、吉行さんはガンを告げられて、 「シビアなことをおっしゃいますな」と言い、その後は病気を飼い馴らすことを、生きることをあきらめてしまった風だった、 という。

今後も、様々な方向から見直して考えねばならない問題かもしれません。