大手饅頭

岡山名産の饅頭。吉行さんの好物のひとつであったようだ。

ただし、戦前の旨さ、と書いてはあるが。

 

大きさや餡子が変わったらしいですが、比べられないのが惜しいですねぇ。



岡田弘

吉行さんが学んだ旧制静岡高等学校の教授(フランス語)。
日本大学でダダについての講義をした吉行さんが使ったテキストは、この岡田氏の訳書『ダダの歴史』だった。

1991年3月19日、氏が逝去するまで交友があった。



岡山県

吉行さんが生まれたところ。正確には、岡山県岡山市桶屋町43番地。

2歳のときに東京に移住したため幼児期の記憶はあまりないらしいが、父・エイスケの弟(謙造)と仲がよく、 成人してからもよく訪れていた。

吉行家の墓も岡山にあり、吉行さんもここで眠っている。



オクラ

居酒屋などでみかけるヌルヌルの肴。

または、作品が雑誌に掲載されることなく、倉庫行きになること。ここでは後者の意味が強い。

吉行さんの言によると、吉行さんと庄野潤三氏がオクラの大家であった。

そのせいか、居酒屋でオクラという字を見ると 厭な気持になったという。

これじゃ酒が進まない?



怒る

「怒らない男」として通っていた吉行さん。

そうなったのは20歳の頃、怒ることがばかばかしく感じてからであった。

それからというもの、怒ったというエピソードは数回ばかり。

当時の吉行夫人を叱り付けたり、会社の女の子の態度が許せなくて 尻を蹴り上げたり、デパートの煎餅売りの女の子の態度が許しがたくて「責任者を呼べ」と怒鳴ったりしたくらいであろうか。

 

ホテルに絶縁状を叩きつけたこともあったが、大声を出したというものでもなさそうだ。

かといって、仏のような心になったのではなかった。

60歳代になっても、腹の中では抑えがたく許しがたい事柄も多々あったと 書いてある。

が、表面には出さないようにしていたという。

厭な事柄に合うとすーいと迂回して避けてしまう、というのも秘訣だったのかもしれないですな。



長部日出雄

作家。
1934年(昭和9)9月3日生まれ。


出身:青森県弘前市。
弘前市立第三中学校を卒業後、早稲田大学第一文学部入学、そして中退。

 

1957年に読売新聞社に入社し週間読売の記者に。その後フリーとなる。
映画評論やテレビドキュメンタリーの構成などを手がけたことも。

 

1973年「津軽世去れ節」「津軽じょんがら節」で第69回直木賞受賞。
代表作:「鬼が来た 棟方志功伝」、「見知らぬ戦場」など。

吉行さんとの交流は、もっぱら「酒」というキーワードを介してであろう。

酒を飲んで頑張っている長部氏については苦笑いの吉行さんであったが、「普段は本当にいいやつ」と言っていたようだ。

その長部氏が直木賞を受賞したとき、吉行さんは自分が芥川賞を受賞したときよりも嬉しかったと言っている (自分のことのように抑制力を働かせる必要がないからかも、という限定つきで)。

詳しいエピソードは、後日まとめます。



叔父

エイスケの弟で、土木建築業「吉行組」の2代目をしていた、吉行さんと気の合う愛称「黒めがね」、本名は謙造。

硬軟両面で暴れまわったあげく立教大学を中退した経歴を持つ。


 「黒めがねのガラは悪いがデリケートな男」として、ときどき随筆に登場してもらっていた。

『日日すれすれ』より


吉行さんが入営する前日、自転車の後ろに吉行さんを乗せて酒を飲みに連れていってくれた謙造さん。

いつもはラクをするのが常なのに、 そのときばかりは叔父さんが自転車をこいでくれたらしい。

旨いママカリを食べさせてくれたり、女遊びを教えてくれたり、 よい先輩的存在。

地声が大きく、それでいて感性は小説家にもなれそうな様子がうかがえた。

1986年1月9日、9年間の半身不随の状態ののち心臓麻痺で死去。

ちなみに、兄のエイスケも狭心症で亡くなっている。 遺伝も関係しているのか?

ちなみに、岡山の旭川という川に全長400mの鉄骨の橋を架けたとか。

ちなみにちなみに、叔父の葬式の後、新横浜で新幹線を降りた吉行さんは約束していた麻雀会に迷ったあげく出席する。

それだけストレスが強かったということだろう。



おしゃれ

立居振舞や言動だけではなく、着る物やライター、鞄などの服飾品もおしゃれと定評があった吉行さん。

その吉行さんが気を つけていることは「めだたない」ことと「流行から少し遅れる」ことだった。

そして、どんなに体調が悪くても、人と会う前にはシャワーを浴びることを欠かさなかったという。
自分が心地よく、虚栄や見栄にならず、人に不快な思いをさせない。これが、吉行さん流のおしゃれなのかもしれない。

高価なスーツも着古した柔道着のようにクタクタにできるのも・・・おしゃれ・・・?



おもいやり

 「なぜ失礼なのかね」
 もう一人の友人が言った。
 「選びながら、迷うと、これはいかにも品物という感じになるではないか」
 「もともと金で買おうというのは、品物扱いしていることだ。いまさら、五十歩百歩というものだ」
 「しかし、この際、五十歩と百歩の差は大きいぞ。そこを考えるのが、おもいやりというものだ」

 

 「おもいやり」があるということは、相手の神経をいたわる心づかいがあることで、美徳と看做されている。その点に、曖昧なところがあり、くすぐったい気分が起ってくる。相手の神経をいたわることは、相手が傷つくのを 見て自分も不安定な気分になりたくない、という気持のあらわれともいえる。結局、自分自身の神経をいたわって いることでもある。





音楽

 私は音痴に近い人間であるが、音楽を聞くとただちにその音の連続をたどって作曲者の心に行きつくことが できる、と自分で勝手におもっている。画を鑑賞するときも、同様である。

『樹に千びきの毛蟲』より


というように、自分を音痴に近いと評価する吉行氏。

作曲はもちろん、カラオケなどには無縁であったが、 お気に入りの曲はもちろんあり、折をみてはレコードで鑑賞していた。

 

吉行さんのドビュッシー好きは有名であり、 この作曲家とは、かれこれ、戦火の中を布団や着る物をも持ち出さず、重たい重たいレコードを担いで 走った頃からの付き合いである。

さて、どういう環境で、どういう風に音楽を聴いていたのか。

 

たとえば、安岡章太郎氏はステレオ自体にも 凝っていて、六畳しかないリビングに大きなラッパ付のステレオを設置し(時代が感じられますな)レコードを 楽しんでおらる時代もあったようだ。

一方、吉行さんはというと、初期は「食堂にステレオが置いてあるので、朝飯のときかけることもあるが、 体(身+区)具合がわるいときにはその作業さえ億劫で一年近く聞かなかった」といった日々。

 

しかし、その後、 思い立って書斎のベッド脇にステレオを設置し、書斎で楽しむように。

ベッドに寝転んで、ジャケットなどに 目を通しながらの鑑賞である。

レコードは二百枚ほど持っているらしい。

そのうちの半分がドビュッシーというから、さすがである。

最初にあるとおり自らを音痴に近いというが、音楽を作った人(作曲家)の心の動きや、そのときの状況が 目に浮かぶという吉行さん。

 

「小説にしても、自然発生的なものなどあるわけはなく、計算外の部分で滲むように、うねるように出てくるところが、じつは一番面白くその人間のエッセンスが含まれている」ということを 以前から感じていた吉行さんは、「音痴にちかいといっても、そういうことについての嗅覚は持っている つもりだ」と自負している。

実際そうであろう、頷かない理由などない。



温泉

 中学・高校時代の私は旅行好きで風呂好きだったので、ときどき友人を誘ってあちこちの温泉地に出かけ、一日に四、五回も 温泉に漬かっていた。

『石膏色と赤』より