改稿

吉行さんは、雑誌に掲載された作品が単行本におさめられるときには手を入れることが少なく、全集におさめられるときは 「仕事の区切り」として手を入れることが多かったようだ。

昭和33年の秋からの約1年間に書いた原稿は、原稿用紙の書き損じが一枚もなかったし、改稿もなかったという。

もとから、 書き損じ・改稿が少ない吉行さんだが、これには理由がありそうだ。

キーポイントは「恋をしていると仕事がはかどる」であろうか。

ディテールを削ることもあったようだ。

本になった作品をチェックしたとき、違う作品に同じまたは類似のディテールをみつけ、 削ったという。

 


 研究者は、こういう初出からの変動に興味をもつようだが、私としては最も近くに手を入れた作品だけ読んでもらえれば 十分である。

『街角の煙草屋までの旅』より


直した部分が最も多かったのは『街の底で』かもしれない。

東京新聞(夕刊)に連載されたもの、単行本のもの、新日本文学全集 (集英社)のもの、ロマンブックス(講談社)のもの、全集のもの、と改稿を重ね、最終的には初出の5分の3なったという。

ちなみに、新聞掲載が1960年、単行本化が1961年、1971年にまた改稿している。



会合を持つ

吉行さんが許せない言葉。

 「会合を持つ」などという言葉は、許せない。これは、あきらかに左翼用語であるが、そのくせエリート意識と 稚なさが含まれている。

『樹に千びきの毛蟲』より



飼い馴らす

吉行さんの、病気とつきあう基本姿勢。

この姿勢は病気だけでなく、女性などにも適用されたと見られる。

対象を病気だけに限定すると、吉行さんの、持病と向き合う姿勢を表したことば、となる。


この姿勢をとることによりゼンソクの酷い発作が起こることは少なくなったものの、 その分が皮膚病という別の形で現れてきていたようだ。

 

「ゼンソクと皮膚アレルギーとは、裏表の関係にあり、全身的倦怠の状態で寝たっきりで数日が過ぎることがあると記しているように、ゼンソクの発作ならば1日 もしくは2日で済んだ状態が、アレルギーとなると数日を要する。

このアレルギーをも飼い馴らしていた吉行さんだからこそ、普通では小説など書いている場合ではない状況を 回避できたのであろう。

医者にまで「どうにかなりませんか」と言われる状態にまで飼い馴らしていたのだから。

しかし、体力は確実に消耗している。

この姿勢に疲れを感じてきたのは推定で40代後半の頃であり、 完全にあきらめてしまったのが、亡くなる前に医師からガンの告知を受けたときであった。



戒名

吉行さんの戒名は「清光院好文日淳信士」。

吉行さんが自分の戒名を考えることになったとしたら、どんな漢字の流れを選んだのだろう。

 

葬式自体を拒否していたので 有り得ないことと思いながら、没後10年目にして想像してみた。

わざと「赤線」といった漢字を選んだりしたのだろうか。

もし、照れたり嫌悪感を感じたりせず、自分の生き方や好みを表すとしたらどんな漢字を・・・と想像はつきません。

ちなみに、エイスケさんの戒名は「文章院滅証宗和信士」。

漢字だけではエイスケさんのものとは分からないけれど、 ある感じは出ていてますねぇ。いいですねぇ。

そして、二人とも「大居士」を使っていないところがいいですねぇ。

でも、戒名だけから見ると○○院○○日○信士という付け方は 日蓮宗の九文字戒名と思われます。

となると、大居士という存在はないのか? エイスケさんの戒名には「日」がない。はて?



和子

吉行和子。


1935年(昭和10)8月9日生まれ。
吉行さんの11歳年下の妹で、新劇女優。

古くは『ふぞろいの林檎たち』での柳沢慎吾の母親役(ラーメン屋のおかみさん)や『ナースのお仕事』での優しい婦長役が 記憶に新しい。

年齢を感じさせないあの若さと美貌は、さすが!



活字

明朝体の活字をたいへん好んでいたという吉行さん。

 あれは、書き手の個性を一たんすべて取払って、文体(内容といってもいい)の個性をゆっくり滲み出させる。 (中略)それでは、活字に個性がないか、といえば、水が無味といわれているにもかかわらず、人工ではつくり出せるものではない 微妙な味があるのに似ている。

『街角の煙草屋までの旅』より


名刺や年賀状も、この明朝体を使ったとか。

違う観点から見てみよう。

吉行さんは、自分の作品が活字になることを目標に小説を書くようになり、書き出してからも、作品が活字になったことに刺激されて 次の作品に着手する、というリズムの持ち主であった。

活字になってはじめて、次の作品を書く意欲がわいてくる、という癖があったようで、これは、「褒めて次の作品を書くように うながし、新しい作品を書いたら前の作品の欠点を指摘しつつ新作を褒めて次をうながす」という手法で吉行さんに小説を書かせた 高校時代の友人のやり方に似ている。



カナ、新仮名と旧仮名

文字を書くようになって以来、旧仮名を使っていた吉行さんであるが、昭和23年から新仮名を使うようになった。

しばらくは落ち着かなかったり、神経が逆撫でされることがあったというが、次第に慣れてきたという。

が、慣れそうにない部分もあったようだ。

たとえば、「きょ離」や「編しゅう者」といった、名詞の半分が仮名で、もう半分が漢字というのは「ヌエのようでいけない。 この場合は制限漢字などにかまわず『距離』と表記して、ルビを付ければいいとおもう。」(『樹に千びきの毛蟲』) という意見。

送り仮名にいたっては、何種類かの方法があるのでヤケクソになっている、とか。





 昔は、金のことを口に出すのが、恥ずかしくて、できなかった。口に出そうとすると、生理的な苦痛を覚える。

 腹を立てたのは、額が少なかったことにたいしてでもあるが、もっと多く、自分が訊ねることができなかったことにたいしてである。
 それが現在ではどうかといえば、平気である。正直にいえば、金のことを口に出す前には、覚悟をきめることが必要なのだが、口に出すときには平気のようにみせることができる。金はたくさんあるほうがよいが、使う分だけ入ってくれば、私は満足である。しかし、そのことがなかなか困難なので、原稿料の額についても、私はなかなかうるさい。

 金は使ったときはじめて金であり、持っているときはただの金属や紙きれだという考え方が私には強い。


『軽薄のすすめ』より


 金は無くてはどうにもならぬ肝心なものだが、金はきたない。

『日日すれすれ』より





吉行さんの鞄好きは有名である。

店頭で気に入った鞄を見つけると、「血が騒」「前後の見さかいなく買ってしまい、 金が足りないときには、売ってしまわないように頼んでおく」(『街角の煙草屋までの旅』)ほどであったという。

旅行したいのに気力体力ともに自信がなくて実行に移せない苛立ちからくる代償行為かもしれないと言っているが、実際のところは?

ちなみに、買った鞄のタイプは、「茶褐色の円筒形の鞄」(イタリア製)、「くすんだ赤の矩形の小さな鞄」 (フランス製?)、「それより二まわり大きくて平べったい黒い鞄」(フランス製?)、「さらに大きくて濃い茶色の皮で 縁取りしてある白い鞄」(西ドイツ製)(『街角の煙草屋までの旅』)とのこと。

 

中で、赤い鞄を愛用していたと言っている。

理由は、それが発する甘い物悲しいにおいのせいで、二年たっても消えないらしい。

他にも、アメ横で藍色の金属製の鞄を買っている。

これは重くて重くてどうしようもなかったとか。

これに懲りたか、理想の鞄は、重さを感じない空気のようなもの。

のちに、『鞄の中身』で読売文学賞を受賞したとき、編集部が鞄をプレゼントしたいと言ってきた。

そのとき、吉行は自分でデザインした 鞄を作ってもらっている。

 

それは、いつも持ち歩いていた黒い長方形のビニール袋と同デザインの皮バージョンであった。

形も崩れないし、高級感のする皮をつかってあったというが、評判は「だらしがない」「間抜け」「風呂敷包み」といった様子で悪かった。

吉行さんは、この鞄について、次のように言っている。

 結局、時間がたつうちにそいう感想はすべて正しいと認めないわけにはいかなくなった。しかし、今でも私はそのカバンを 持って歩いている。間抜けだとするならば間抜けのままの形で使いこなしてやろう、とおもっているのだが、鞄と私が歩み寄って、中間のところでおさまることになりそうだ。

『街角の煙草屋までの旅』より



上野毛

東急大井町線の駅。東京都世田谷区。吉行さんの家がある土地。

五島美術館の裏にあるため、客人に「借景」と言われるほど木々があり見事だったとか。

「吉行」「宮城」とふたつの表札が並んでいた。

家の前には坂があり、右へ降りると多摩川へ、左に坂を登ると駅への道にでる。



からだ

身体、体躯、躯体、躰、軀。



カレーライスとライスカレー

吉行さんのイメージだと、

カレーライス:本場のもの、あるいは本場に近いもの。香辛料がふんだんに使われているカレー。複雑な味のするカレー。

ライスカレー:黄色いどろりとした液体。アルミニウムのスプーンで食べたいようなカレー。福神漬けが似合うカレー。 日本の各家庭それぞれが秘伝を持っていたりと、愛嬌が感じられるカレー。食べ物の範囲を超えた食べ物。生活のにおいが しみこんでいる食べ物。

この、ライスカレーを食べたいときの吉行さんの心境は以下の通り。

 考えてみれば、こういうライスカレーにあこがれるということは、食べ物にあこがれているわけではなく、人生にもっと 生ま生ましく触れ合ってみたい、というような心持のあらわれといえる。なにごとにもおどろき易く、初心で感受性の みずみずしかった少年の日を思い出したりしている状況といえそうだ。

『街角の煙草屋までの旅』より



勘・カン

どうも勘が鋭かったらしい吉行さん。いくつかエピソードがあるが、これは。

 五月二十五日、B29三百機の空襲で、岡田先生の寄宿先の桜田家も焼け、私の家も焼けた。 私の家は靖国神社まで歩いて十分のところにあったが、どうしてもその方向に足が向かず、反対方向の小公園に逃げた。 私の家の三人のほかには、人の影は一つも見えなかった。その公園の地面に横たわって、私は眠ってしまった。 昼近く目覚めたとき、その公園を頂点とした楔状の部分が、奇跡的に焼け残っていた。(『犬が育てた猫』)

勘って、なんでしょうねぇ。

経験や偶然が重なってできあがるもの、そうではないもの、ふたつあるような気がします。
まぁこれも、今後の課題。



ガン

吉行さんが最も恐れた病気、そして皮肉にも、吉行さんの命を奪った病気。(C型肝炎による肝臓ガン)

 私についていえば、苦しい死に方は厭である。ガンは特に厭である。

 ガンの闘病記というのは、陰惨で読むといつも憂鬱になるが、ガンの医者はしばしばガン細胞のことしか考えていないのではないか、 とおもう気になる。それも目下異変を起している細胞だけを攻撃して、それさえ落城させれば自分としては本望だとおもい、 その副作用のために一個の人間が人間とは呼び難い状態になってしまうことには、考えを向けないところがある。


『日日すれすれ』より


ガンであることを告げられた吉行さんは、「シビアなことをおっしゃいますな」と言い、その後は病気を飼い馴らすことを、 生きることをあきらめてしまったような様子であったという。



肝炎・慢性肝炎

吉行さんが飼い馴らしていた病気のひとつ。

内臓が(恥ずかしいほど)強い吉行さんが何故この病気にかかったのかというと、アルコールの摂取は一因であろうが、おそらくは 多種多量の薬を服用したことが原因での副作用によるものと考えられる。



玩具

「大人になっても好きな物」のひとつ。

玩具が好きだった吉行さんは、フとしたことから手に入れたりもしていた。場所は三越。松屋と間違えて 入ったとき、五階のおもちゃ売り場に行った。

 プラスチック製の小さい汽車が、異常に遅い速度で、橋を渡ったり坂を登ったり、液の傍を通り抜けたりしている。 その速度の遅さがおもしろくて、一組買って届けてもらうようにした。
 小さな囲いの中で、ブリキ製のロボットが、逆立ちしたりでんぐり返しをしたりすることを、いつまでも つづけている。このごろの玩具は私の子供のころのようにゼンマイ仕掛ではない。乾電池を使っているので、 いつまでもその動作を繰返している。立止まって、しばらく眺めている。もがき苦しみつづけているようにみえる。 丁度、短篇を書き悩んでいるところだったので、そのロボットに共感し、買って汽車と一緒に届けてもらう依頼をした。

 (中略)

 なお、後日談になるが、プラスチック製の汽車は普通のスピードで走った。つまらない。私がデパートで見たものは 電池が弱っていたらしい。


『樹に千びきの毛蟲』より



簡潔

無駄な物を好まない吉行さんだが、もちろん、文章に対する姿勢もしかり、である。

 「百枚の作品となると、話が違ってくる。二、三百枚となると、これはこれでまた違う。しかし、六、七十枚のものなら、 三十枚で書けるんだ。もっとも、なかには、三百枚のもので、三十枚で書けるようなものもあるがね。」

『樹に千びきの毛蟲』より


簡潔。

 

この姿勢は吉行さんの好みであり、生まれながらの感覚に、経験によって形づくられた感覚が重なって形成されたものではあるが、 その経験のひとつが以下のであると推測できよう。

 十代の末に読んだ「チェーホフの手帖」(手もとに本がないので不便だが)に、海についての描写にさんざん苦労したチェーホフが、 どういう表現に行き着いたかについて、記している。
 『海は、広かった』
 このときの感銘が、私に抜きがたい影響を与えて、以来、装飾物の多すぎる表現、おどろおどろしい表現、すべて敬遠である。 それにしても、『海は、広かった』という一行が無事におさまる作品を書くことは、じつに並大抵のことではない。


『樹に千びきの毛蟲』より



観察する眼

 このはげしいおかしさ・・・、これを私は明確に分析できぬのである。自分のおもわず取った、無意味でバカらしい行為に たいするおかしさ、というものも含まれてはいるのだろうが、しかしどうも違う。批判をまじえたおかしさとは異なるはげしさが、 解決がつかない。生命がじりじり限界へ追いつめられて行ったとき、不意に飛び出してくるややグロテスクな味を交えた滑稽感・・・、 そのようなものではなかようか、と漠然と私は考えているのだが。そして、入院以来、私は観察する眼を、主にこの方向の事柄に 向けてきたつもりである。

『軽薄のすすめ』より


一方、吉行さんの観察力が働かない、穴のような部分がある。

それは、相手の服装や装身具について、である。

気付いたのは、野坂昭如氏が上野に、ステテコに茶色い腹巻をし、豆しぼりの手ぬぐいで鉢巻をしていた姿であったというから、 そのレベルは計り知れない。

 

シャツが、男性用のは左前、女性用のは右前と気付いたのも、たしか50代半ばのことだった。

アクセサリーについても同様で、よっぽど大きなダイヤの指輪を十本の指にでもしないかぎり、どんなアクセサリーをしていたかは 覚えてもいなかったとか。

裸が一番ということですよね。←違う



漢字

 私はべつに新カナ論者ではなく、昭和二十三年までは旧カナ正漢字で書いていたが、しだいに抵抗感がなくなったので、 新カナ新漢字に転向した。ただし、制限漢字に関しては反対であり、また新しい送り仮名についてはヤケクソの気分で、 「勝手にしろ」と怒っている。この二つのものが日本語を汚なくしていることは、すでに明確である。

『石膏色と赤』より


同類後→「カナ」



乾癬

1986年、2月3日に役満を三度和了した後、3月末に発病。

 大吉のすぐ裏側は大凶で、いつ裏返るか分からない、という考え方であろう。はたして、三月末に、乾癬が発病した。

『日日すれすれ』より


この病気は原因も治療法も分からなくて、医者が「どうしたものか」と困り果てていたという。

ウロコのように皮膚がポロポロと剥がれていくので、ベッドや机はもちろん、雀卓やその周辺にも白い皮膚の粉が散乱するようになった。

それを気にした吉行さんは「伝染しないから」と言いながら小さなクリーナーを持ち歩いて吸っていたとか。

ベタつかない病気であるのも、なんだか吉行さんらしいですな。