気管支ぜんそく

吉行さんが、生涯悩まされつづけた病気。

この病気であることに気がづいたのは20歳で入営した3日後のことで、4日目には即日帰京となった(こんなことは奇跡)。

診断されたのは20歳だが、実際は幼少の頃から症状があったらしい。

なんとなくだるい、ということがよくあったというのだ。

大学時代には、注射器を持ち歩いていて、発作が起きるとトイレに行っては注射を打っていたという。

アドレナリンを 0.2~0.5ccほど皮下に打つらしい。

 

失敗して大きな血管に入ってしまったこともあるらしく、そのときは心臓に 氷の短刀が食い込んだような刺戟があって、体が自然に飛び起きたとか。

腕にも腿にも注射を打ち、看護婦さん(当時の呼び方)に鉄のように堅い腕、と言われるほどになった吉行さん。

モルヒネを 使わないようにと指示したのも、このゼンソクのためであった。

ちなみに、ヒロポンには近づかなかったとのこと。



菊鮨

銀座にある鮨屋。
吉行さんが、鮨を食べ酒を飲みに訪れた店。何十年もの付き合いがあった。近藤啓太郎氏らと来店。

あの食いしん坊な池波正太郎氏が紹介している菊鮨と同じ、と推測。とすると、「週末にでも行ってみましょうかね」とは いかないようです。

 

紹介制なのです。

 

地下1階という立地条件で目立たないのですが、先代は昭和天皇に初めて生魚を 食べさせた、という凄いのか凄くないのか分かりませんがエピソード付の店。

もちろん旨いらしい。

 

「らしい」というのは当然、食べたことがないから。

誰か紹介してくれ!



喜久よし

上野にある鳥料理店。

その昔、近藤啓太郎氏に連れて行ってもらった吉行さんが、そこの水たきをいたく気に入ったという。

鳥、大根、少量のウドと サヤエンドウが入っているだけのシンプルな鍋。

この店の料理人(吉行さんいわく「おやじ」)の料理への愛情をも好ましく思っていたらしく、吉行さんはメロンをも褒めていた。

出されるタイミングの測定具合が非常によかったというのだ。

今もあるのでしょうか。気になります。



季節

 いまでは、餅を食いたいとおもえば、一年中すぐに手に入り、これは季節感が失われてきていることにつながる。昔は、 春には春の花が咲き、果物も野菜も春のものは春にしかなかった。いまは一年中だらだらとあって、そのかわり一つの季節を四倍に 薄めたようなぼんやりした味がする。

『石膏色と赤』より


また、日本にある4つの季節を乗り越えるのが大変、とも吉行さんは言っている。

季節が変わる度に「でこぼこを乗り越え」 なければならず、その度に横臥しては「水に浸かったような」気分になっていた。

 

この「でこぼこ」はゼンソクにはもちろん悪いし、その他、皮膚炎や花粉症も季節と関係が大あり。

だったら海外に移住すれば楽なのでは、という声もあったらしいが、日本人である以上、日本に生まれた以上、 この日本で暮らすことに決めた、と吉行さんは言っている。



北杜夫

作家。そして医学博士。
本名:斎藤宗吉


1927年(昭和2)5月1日生まれ。

2011年(平成23)10月24日死去。享年84歳。


出身:東京都(青山)
麻布中学→旧制松本高校→東北大学医学部卒業。慶応大学の医局に務める。

1960年(昭和35)『夜と霧の隅で』により第43回芥川賞を受賞。
代表作:『どくとるマンボウ航海記』をはじめとする「マンボウ」シリーズ。
『楡家の人びと』『船乗りクプクプの冒険』など。

父が大歌人・斎藤茂吉、兄が斎藤茂太さん、弟が北杜夫さんという、なんとも凄い一家。
吉行さんとは、麻布中学の先輩と後輩という間柄で、吉行さんがいばっていられた相手の一人。
対談に何度も登場されている。



木戸徹

きどとおる(あきら?)

吉行さんが、1946年の『葦』1号で使ったペンネーム。
書いた文章は編集後記であった。

今さらですが、このペンネームの由来は何でしょう?

古くは二葉亭四迷(くたばってしまえ)、最近だと阿佐田哲也(朝だ、徹夜)と同じく、木戸徹(木戸通る)ですかね?
小学生の吉行さんは、学校から帰ると、一人で裏木戸を出たり入ったりして遊んでいたというエピソードがありますので、 その可能性もあるかと。となると、これを使った当時の心境・姿勢というのも自ずから・・・



奇抜

 奇抜さは、すぐに腐る。

『私の文学放浪』より



着物

晩年の写真を見ていると黒っぽいセーターに黒いズボン、というスタイルが多い吉行さんだが、実際はどうだったのだろう。

1975年に刊行されたエッセイによると、「部屋で仕事をしているときは、着物を着ていることが多」かったという。 理由は、「紐一本で着たり脱いだりできる着物が便利で」、すぐさまベッドにもぐりこむことができるからであろう。

ちなみに、「前がはだけたりジュバンが裾の下に垂れ下ったりしてしまう。したがって、とうてい外出することはできない」 状態だったらしい。

そういう姿に惹かれた女性も多いんでしょうね、やはり美男は違いますな。



きゃっと叫んでろくろ首

寝る前に布団の中で今まで経験してきた恥ずかしいことを思い出して到達してしまうある状態のこと。

この状態になれない人は、紳士の資格がないかもしれません。



ギャンブル

 もしそうだったら、私の人生は・・・・・・。たらは人生とギャンブルには禁物で、つまり人生にはギャンブルの要素が 多分にある、ということか。

『日日すれすれ』より


吉行さんは、言わずとしれたギャンブラーである。

パチンコ、花札、麻雀、トランプはもちろん、人生の要所要所で気負わない 「賭け」をしている。

ギャンブラーの常であるが、生活のいろんなことが賭けとなる。

といっても、競輪、競馬、競艇っていうのは聞いたことないですねぇ。



吸血鬼

吉行さんの中学時代のアダ名。

教室で吉行さんの隣の席になった人間が次第に青ざめて痩せてくる、と言い出した友人がつけたものとのこと。

実際に事故死した友人も多いせいか、吉行さん自身も「親友と死に別れる星でもついているのか」と思ったそうだ。

が、文学上の友人ともなると、吉行さんいわく「殺そうとしたってなかなか死にはしない」らしく、吸血鬼というアダ名は 過去のものと化したらしい。

他にも、「ないないあったのセンセイ」などアダ名があるが、それはまた別の項で。



脅威

作家が本当の意味で興味をおぼえる相手というのは、なにも受賞の回数や知名度ではなく、「自分と共通点のある才能の閃きに たいしてではあるまいか」という吉行さん。

 脅威は、同時に親近感につながり、近寄って相手を覗いてみようという気持になる。そういう形で、同じ時期の新人作家のあいだに 交友が結ばれ、何日も会わぬと相手が何をしているのか不安でもありまた懐かしくもありで、行き来が頻繁になる。そして、 そういう交友が、文学的青春の気配を一層濃密にするのである。

『私の文学放浪』より


その相手は具体的に誰か、というと、たとえばエッセイの中から探してみると、大阪に住んでいた庄野潤三氏とは「夥しい量の 手紙を取りかわし」(『私の文学放浪』)ていたというし、安岡章太郎氏とは毎日のように会っていたというから、 吉行さんにとって「脅威を覚える親しい相手」がこの2人だったことは間違いない。



虚栄心

自尊心と微妙につながったもの。
自尊心を持つ必要のないときに、それにこだわると虚栄になることが多い。
未熟なときには、自尊心と虚栄心のあいだで判断をあやまることがある、という。



嫌いなことば

純粋、純情、孤独、重厚 など



キリスト教

吉行さんの友人にはキリスト教の信者が多かったという。


思い出すかぎりだと、遠藤周作氏(幼少時に受洗)、森内俊雄氏(中学で受洗)、島尾敏雄氏(成人してから受洗)、三浦朱門氏 (成人してから受洗)など。

晩年になって安岡章太郎氏もキリスト教徒になっている。

もちろん無宗教の吉行さんは、キリスト教をもイカガワシイ、またはウサンクサイものだと見なしていて、遠藤周作氏とはかなりの 口論をたたかわせたという。

しかし、次のようにも言っている。

 そして、この人たちの人間にたいするある種のやさしさの好ましさについては、認めないわけにはいかない。

『石膏色と赤』より



銀座

吉行さんの庭。

小さい頃から、伊東屋のビルを遊び場にしていた吉行さんらしく、大人になっても遊び場にしていた。

吉行さんと銀座の関係は「時折ニ、三軒の酒場で酒をがぶがぶと無趣味な飲み方をするだけ」というもので、銀座でなくては 見つからない品物がある、といった具合のものではないという。

 

その酒場自体も、銀座でなくてはならない、という種のものではないらしい。
当時と現在は違うが、いわゆる「子供の街」ではない所、ということも理由のひとつかもしれませんね。