腐る

吉行さんの念頭にあった「腐る」という単語からイメージされるのは食べ物ではなく文章であった。

その時代にとって斬新で輝くような衝撃的な新しさは、時が経つにつれ腐っていき、いつしか見るに耐えないものになってしまう。

文章もしかり。

 

だから吉行さんは文章を書くときに「腐らないもの」を書くよう注意したという。

その結果、透明な、余分なものの ない吉行さん独特の文章になったといえよう。

この「腐る」という感覚を身をもって教えてくれた(?)のは、父親であり作家の吉行エイスケだったと吉行さんはいう。

エイスケのダダイズムは本物であり認めていた吉行さんだが。



熊の手

吉行さんは、男は熊の手を持つのが望ましいと言っている。

力強い(熊に倒される大木を見よ)反面、細かい所も優しく 丁寧に触れる(蜂の巣を取って蜜を舐める様を見よ)熊の手。

これぞ、男の強さ、男の優しさということであろう。

しかし、一般的に熊の手と言って思い出すのは熊掌という料理であろうか。

吉行説によると、右手をよく動かすせいか程よい固さに なっているので、そして蜂蜜を触ることにより旨みがでるので、この右手を食べる。

左手は、冬眠中に尻の穴を抑えて寒さを 防いでいるから、あまり好ましい香りがしないので食用には向かない、とのこと。

真偽のほどは?

あるとき友人に尋ねてみたところ苦笑されたというから・・・。



暗い場所、薄暗い場所

人間の性格に、陽の当たる場所を好むタイプと薄暗い場所を好むタイプとがあるとすれば、吉行さんは後者のタイプだといえよう。

この傾向は、吉行さんが子供の頃、射的場のカビくさいような陰気なにおいが吉行少年を懐かしい気持にさせたことからもうかがえる。

これは何も性格が暗いから、ということではなさそうだ。

「陽の当たる」というのと「目立つ」が同じ意味と思えばいいのかもしれない。



暗い部分

 小学生でも、心の底にはたくさんの暗い部分があるのは当然だが、今おもうと不思議なくらいその分量が多かった。

『光の帯』より





宮城まり子氏と二人の時間・場所を作るために、免許をとって車を持ったという吉行さん。

「愛しているなら免許を取れるでしょう」と言われて必死になったようだ。

 

そして、34歳で免許を取得してからの5年間は 2万キロずつ走ったというから、その情熱もうかがえよう。

「忙しい時期によくそんな時間があったと驚く」とは吉行さんの言葉。

納得。

当時は、車を所有するのは贅沢きわまりないことで、吉行さんは一種のうしろめたさを感じていたという。

それは、 歩行者にクラクションを鳴らさないことからはじまり、友人たちをやたらと乗せたがり、たとえ自分の行く先とまったく方向が 違っても順に送り届けた、というエピソードからもうかがえる。

クラクションといえば、車を選ぶときの基準にその音色があり、とりあえず鳴らしてから車を決めたそうだ。

といって、 鳴らす機会はあまりなかったようではあるが。

色は、埃が目立たないような物を選び、紺→白→白→ベージュと買い換えていったらしい。

1台目(オースチン・中古)が2年間、 2台目が3年間、3台目が7年間、4台目が10数年間。

ちなみに、車庫は作らず野晒し状態だったとか。

一雨くるのを待ち望んだり、ガソリンスタンドの洗車を利用したり、 とことん自分では洗わなかったようである。

たしかに、洗車は似合わないことのひとつかも?



クレー

パウル・クレー。
吉行さんが愛した画家。

 しかし、この本は絵が主で文が従ではないし、その反対でもない。絵と文とは同等だが、絵からヒントを得て、 一つ一つの文章を書いたわけでもない。ただ、クレーの絵に刺戟され激励されて、文章を書いたことは確かである。

『犬が育てた猫』より



クレパックス

吉行さん好みのイタリアの漫画家。
その実力は、「ビアンカ」の一巻を見た吉行さんに「絵が上手すぎて呆れた」と言わせたほど。





吉行さんの好んだ色。

衣服は、スーツもセーターもシャツも、パジャマ以外はほとんど黒が基調であった。

これは、街中で目立つことなく すんなり溶け込んだように見える色だから、とのこと。

一方、家具や持ち物はそう黒ばかり選んでいたわけではなさそうだ。

仕事場の机は年代を感じさせる濃い茶の木製だったし、 バッグも赤を買ったりしている。

どんな色とでも合い、目立たないようでいて実は派手な色の黒。

なんだか、吉行さん自身のイメージと重なるようでならない。



グロテスク

「究極の地点に追い込まれたとき、そこからグロテスクなユーモアが生まれてくる、これを描ききれていた場合に、 文学の一極点になる」(『面白半分のすすめ』)と吉行さんは言っている。

吉行さん自身が、このグロテスクなユーモアに向かい合うようになったのは、清瀬病院に入院中のことだった。



軍国主義

 少年の私を欺せなかったのだから、よほど浅薄な論理だったとおもえる。これを逆に考えると、もっと巧みな論理で 欺しおおせる書物があったなら、私も軍国主義に巻きこまれなかったとは断言できない。もっとも、結局戦争向きでない私の 生理まで巻きこむことはできなかった可能性のほうが大きいが。戦争によって花ひらく生理というものもあり、その細胞のきらめきは 悪い眺めではないが、所詮私には身につかぬものだ。

『私の文学放浪』より