軽薄

 「軽薄」の反対語は、「重厚」であり、ここには価値の判断も含まれているようだ。もちろん、「重厚」を良しとして「軽薄」を 軽んじている。しかし、「重」とその反対語の「軽」のあいだには価値判断は含まれていないし、「厚」と「薄」も同様である。 腕時計は薄いほうが最近流行で、ボクシングは重量級のほうがおもしろい、などというのは話が別で、「重」と「軽」、 「厚」と「薄」とは、たとえば「赤」と「黒」というのと同じに状態の違いをあらわしている言葉である。

 「重厚」と「軽薄」もそれと同様に考えたいし、どうしても価値判断を含ませたいならば、その価値の逆転をたくらみたい。

 今の日本に、また日本人気質に必要なのは・・・、というと話が大げさになるが、ともかく必要なのは重々しい コワモテ風の姿勢ではなくて、鋭い軽薄さである。軽薄さがそのまま批評につながり、重厚コワモテにたいしての破壊力を持つ、 という意味合いである。


『軽薄のすすめ』より



毛ジラミ

吉行さんは、自らこれを飼育していたことがある、というような文章を書いている。

「苛立たしく不快であると同時に、愛嬌があって懐かしく思い出されるもの」(『面白半分のすすめ』)であるらしい。

微苦笑をさそい、吉行さんに「なかなかよろしい」と言わせた毛ジラミ。

ペン先で・・・と詳細を記すには筆力がないので控えますが、どうも、この毛ジラミを忌み嫌う若者が増えたことを 嘆いておられましたな。

若者のためにもう一言つけ加えますと、この吉行さんの言う「毛ジラミ」は頭髪や眉毛、睫毛に棲息する虫ではございません。 (というと・・・?)

そういえば、色紙に「木に千匹の毛虱」と書いていた時期がありましたよね、といっても、後に虱が蟲となっていました。



下宿

21歳から23歳頃にかけて下宿を経験した吉行さん。

1年で3箇所に移り住んだという。

 

その間、下宿の主人に「頭がオカシイ」と 思われていたことがあった。

女主人のオバサン(30歳過ぎ)は吉行さんを嫌い、「頭がオカしいらしいけど、友だちはいるようよ」と 近所の人に言いまわっていたという。

吉行さんいわく「世の中の最大公約数に理解されることは、とっくにあきらめていたのだが、厭な時期だった」 (『樹に千びきの毛蟲』)とか。

 

そして、この場所には、長い時間が経った後でも、こわくて足が向かなかったという。

オバサン・・・年上趣味のない吉行青年が「オバサン扱い」する、すなはち性の対象と看做していないことに彼女は気づき、 ヒステリーを起こしていた可能性もありますな。



結婚

同棲していた女性と結婚し、一児(女の子)をもうけた吉行さん。


吉行さんの結婚観や、吉行さんが思う女性の結婚観など、おいおいアップしていきます。
これまた余談ですが、妹の和子さんは四年間の結婚生活の後、またお一人に。理恵さんもお一人と聞いております。

吉行家の血が絶えるのは残念な半分、とても頷いてしまうお話です。



ゲテモノ

吉行さんは「ゲテモノ好き」と言われていた。

吉行さんに言わせればゲテモノ=「わかりにくい美人」という表現になるのだが、 周囲は「ゲテモノ」と。

安岡章太郎氏や近藤啓太郎氏のお話だと、吉行さんは自分自身が美男子だから相手の女性の容姿などまったく気にしないでいられる、 美醜ではない部分で気に入った惚れた相手と一緒になれる、ということらしいです。

(ちなみに、両氏は、ご自分の容姿に自信が ないため美人に惹かれたとのことです)。

女性のみなさん、どうですか?
吉行さんに「美人だね」と言われたとしたら・・・キワドイですよね。



ゲームセンター

吉行さんが好きだった場所。

新宿のスポーツセンターをはじめ、銀座のゲームセンターなど、かなりの頻度で足を運んでいた模様。

射撃を楽しむ吉行さんの写真も 残っている。

その他、インベーダーに熱中した時代もあったり、コインゲームも好きだったようだ。

この場所も「喧騒の中の静寂」が得られる場所ですよね。



権威

吉行さんは、権威を鵜呑みにできない性質であると語っている。

戦争中の権威と戦後のそれとの落差が激しかったこともあるが、 それ以前に、権威は疑ってかかってみる癖がある、と言っている。

病院での「医者対患者」となると、また別の問題が発生したようだ。



原稿用紙

処女作「薔薇販売人」のときから、「神楽坂 山田製」の原稿用紙を使っていたという。

山田紙店の製品で、以後、ずっと使いつづけたという原稿用紙。

デザインが途中で変わったり、主人と罫線について討論したことも あったというが、気に入っていたようだ。

オイルショックで紙不足のとき、作家の商売道具にもかかわらず一包ずつしか売ってくれなかった主人に対して、苛立ちと、 その頑固さに笑ってしまった部分もあったという。

ちなみに、吉行さんの原稿用紙消費量は少なく、1年に多くて1000枚。

買うときは2~3包はまとめて買うので、 その店に足を運んだのは10数回足らずとか。



原色の街

この作品を書いたとき、吉行さんはまだ娼婦に触れたこともなければ、赤線に足を踏み入れたこともなかった。

 私の意図の一つは、当り前の女性の心理と生理のあいだに起る断層についてであって、そのためには娼婦の町ちう環境が 便利であったので背景に選んだ。意図のもう一つは、娼婦の町に沈んでゆく主人公に花束をささげ、世の中ではなやいでいる もう一人の主人公の令嬢の腕の中の花束をむしり取ることであった。善と悪、美と醜についての世の中の考え方にたいして、 破壊的な心持でこの作品を書いた。いわば、私はダダであったとおいってよい。しかし、過去のダダたちが自分の文章まで 破壊しているのを、亡父を通じて見ていた私は、その点には保守的であった。私はなるべく修飾語のすくない、透明な文を書こうと 心掛けた。この心掛けは、現在にいたるまでつづいている。

『私の文学放浪』より


この作品は、一年くらいの間、どの雑誌にも採用されず日に当たることはなかった。

その間の吉行さんは、 「依怙地のようなもの」とはいえ更に自信を深め、自信を固めていったという。

そして、「世代」の編集委員がまわってきた、作品が載るからついでに編集も、ということだったらしい。

1951年、 吉行さん27歳のことだった。

しかし、評判は「否定的沈黙」であったらしく散々であったとか。

そのときのことを、吉行さんは以下のように書いている。

 帰途、一人で夜道を歩きながら、
 「もう小説は書くまい」
 とおもった。このときも、作品にたいする自信がなくなったわけではなかったが、あまりの理解されなさに、失望落胆していた。「原色の街」を脱稿したのが二十五年七月で、以来一年半ちかく、私は一度も原稿用紙に向かったことがなかった。


『私の文学放浪』より


自分の作品が活字になると次の作品に対する意欲と情熱が出るタイプの吉行さんにしては、めずらしいというか、逆効果になった 数少ない例かもしれない。

同人からの評判はよくなかったが、芥川賞の候補になっている。

結局、『原色の街』と阿川弘之氏の『こけし』が最後まで残ったが 受賞したのは堀田善衛氏の『広場の孤独』であったと新聞で知った。

しかし、吉行さんはこの結果を情けなく思うより、 候補作になったという事実を確認出来たことの方が嬉しかった、と言っている。

ちなみに、『原色の街』を推薦したのは、かの舟橋聖一氏であった。