講演

吉行さんが苦手とするもの。
理由は、観客のたくさんの目が生理的に嫌なのと、観客との距離が測れないということ。

人を「対談型」と「独演型」と分けるとすると前者に属する。
吉行さんいわく、対談であれば相手との距離を確認しながら話を進められるが、大勢の観客となると一人一人との距離感を
測れるはずもなく、ただひたすら途方にくれる、というわけだ。

講演をするときの感情を、次のように語っている。

 恥ずかしくて、笑ってもらわないと間がもたない。

『街に顔があった頃』より


今度は反対の立場、講演を聴いているときの経験を次のように書いている。


 一度、あまりに退屈なので、俯いて本を読んでいると、見張役の退役軍人大佐が飛んできて、狂ったように殴った。
 そのあと、教員室に呼び出され、
 「まえは、教練不合格にしてやる。もうどこの上級学校にも行けないぞ。中学だけで、あとは兵隊だ」
 と、言われたが、謝らなかった。
 私の講演ぎらいは、案外ここらに根があるかもしれない。


『日日すれすれ』より


帯広での講演のときは、壇上に上るなり絶句し、なんと5分で降壇してしまったという逸話の持ち主。
(フォローは同行の有馬頼義氏がしてくれた。)

五島美術館での講演は、昭和52年秋の第21回大東急記念文庫公開講座『西鶴』の中で、「西鶴について」という内容のもの。
借景の件もあり、仕方なく引き受けた貴重な講演の一つですな。

吉行さんの講演をどんな形であろうと(?)聞いたというのは、希少価値も希少価値、天然記念物に指定したいくらいです。



甲種合格

なんと、吉行さんは徴兵検査で2度も甲種合格している。

当時は、身長と体重のバランスが取れていて、かつ目と肺が悪くなければ甲種合格だったということではあるが、病身のイメージが 強い吉行さんなので、戦後、周囲からはかなり珍しがられたという。

しかも、1度は気管支喘息がみつかって即日帰郷となったが、再度、甲種合格をしていたりも。終戦を迎えていなかったら、 吉行さんは2度も戦場に送られていたことになる。



口述

書くこと、というより、白い原稿用紙を見ることに恐怖心をおぼえてしまった吉行さん。

さりとて、原稿を仕上げなければ収入も なくなる。

そこで、口述筆記という形で原稿用紙に文字を埋める試みをした。

読んでいても分かるんですよね。

口語体だったり、いつもなら「私」と書くところを、「僕」になってたり。

内容は口述といっても乱れたところはないのに、やたらと親近感をおぼえるような文章に仕上がっています。

たとえば 『悪友のすすめ』とか。

仕草まで伝わってくるようです。



香水

大学生の頃、女学校でアルバイト講師をしていたとき、給料の額が聞けなかった自分と実際に貰った給料の安さに腹を立てて、 一月分の給料をはたいて買ったのが香水。

が、香水について、さほど詳しいわけではないらしい。

ニセ伯爵令嬢事件で、「夜間飛行」という香水の名を口にしてみたりしているから、まったく知らないわけでもなさそうだが・・・。

ちなみに、苦手な香水が、「ディオリシモ」と「石の花」で、ゼンソクを起しかけたというエピソードがある。

たしか、 白檀の匂いもゼンソクにつながっていましたな・・・。



紅茶キノコ

ある日、母(あぐり)のところを訪れた吉行さんが、ふと紅茶キノコをみつけてしまった。

そのときの様子は、以下の通り。


 西洋医学が万能ではないから、漢方などは軽視できないが、もっとヘンなものに凝る。それも、熱中するから不気味で、 人にまでそれを押しつけたがるから鬱陶しい。
 一年ほど前に訪ねてみると、大きな広口ビンの中にヘンなものが浮んでいて、これは大変健康によい生きものだという。
 「名前はウクライナさん」
 その言い方を聞くと、気持が悪くなった。
 「どんどん肥って殖えるから、分けてあげようか」
 というのを、慌てて断った。


『石膏色と赤』より


これを、結果的には飲むことになる。

というのも、高校時代に興味をもった「クワス」という白い液体=紅茶キノコという情報が入り、それならば、という気持で 飲んでみたらしい。

「かなり拒否的な気分」になりながらも、以後、ときどき飲んだとか。

後で調べたら、クワスと紅茶キノコは別物ということが判明した。

その後、ウクライナさんを飲んだかどうかは、今のところ記述にない。





声だけで、その人物の職業が分かるという吉行さん。

声には、その人の歩んできた人生や感情や感覚が染みこまれている、というのだ。

 

実際、電話を受けたときに、同じ文筆業やジャーナリズムにたずさわる人の声はすぐに判別できたというから驚き。

と同時に、 受話器をとって声を聞いたとたん「これはいけない」と倦厭したくなる相手もいたようだ。

表情や服装でごまかされない本当の「自分」が声に出ていそうで、ちょっと怖い気もしますねぇ。



虚空から花を掴み出す

処女作『薔薇販売人』の頃から、吉行さんの胸にはりついて離れないフレーズ。

吉行さん自身の言葉か、太宰治氏の言葉かは、 本人にもよく分からないらしい(いずれ調べなくては)。

この行為は積極的な行為に分類され、そうとうのエネルギーを要するとか。

なにかを読んで感銘するとき、吉行さんは虚空から掴み出された花の強烈さに感銘したと同じ意味である、というようなことを 言っている。



心の針

小説を書いているときの吉行さんが、体内に感じる現象を表現したことば。

 私が小説を書いているときには、いつも心の中に微妙に揺れ動いている針を感じはじめる。その針の振動は、 余分な刺激を受けると、たちまち乱れてしまって、まったくダメになる。したがって、胸の中をかかえこむように しているわけだが、この針を狂わせる事柄はうじゃうじゃあって困る。

『樹に千びきの毛蟲』より



孤児

吉行さんは、小さい頃の自分を思い出して「孤児のようだった」と語る。

父親のエイスケさんは家に帰ってきたと思ったら新しい足袋を用意して出かける人だったというし、あぐりさんは美容院の仕事が 忙しくて家にほとんどいなかった。

 

いたのは、同居していた祖母だけだった。

が、この祖母も吉行さんをかわいがるというより ヒステリーのためか定規で殴ったりしていたとか。

小学校から帰ると、玄関の扉を出たり入ったりして遊んだり、屋根に登って寝てみたり、その行為はまるで「孤児の振る舞いではないか」 と回想している。



胡椒亭

吉行さんが、飲みすぎて椅子の上に横になって眠ってしまったというお店。

芦屋にも胡椒亭という有名洋食店があるが、吉行さんが行ったのは銀座のそれだろう。

二人でワイン二本、その後、三人でワイン三本を 空けたというから、吉行さん一人で二本近くのワインを消化した計算になる。

そのときの年齢は推定54歳。

そのようなことは初めてだったというが、現場を見てみたかったような気もする。

ちなみに、その日の新聞の運勢欄に「虚栄のために身を謬ることあり」とあり、飲みすぎの原因は、ワインの産地を当てて 気を良くしたことにあったので「おそろしい」と後述している。



古典

 世の中の古典といわれるものは、読めば身にしみる年齢になったときには、生活があわただしくなっていて、 なかなか再読できない。

『樹に千びきの毛蟲』より



孤独

 私はその光景を暗然としてながめていた。あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。 そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、私はどうしても忘れることはできない。
 戦後十年たっても、そのときの気持は私の心の底に固いシンを残して、消えないのである。


『軽薄のすすめ』より


 もし私がこの言葉を使うとすれば、たとえば「孤独なるチンパンジー」といった具合に、滑稽化する場合に限る、と書いた。 ところが、その後、自分の作品を調べる必要があったとき、数年前の作品に「孤独」という言葉をまともに使っている箇所が あるのを発見し、赤面した。
 不覚である。

(中略)

 私は「孤独」という文字からは、一種の甘ったれを感じ、「純粋」という文字からはいかがわしさを感じる。


『樹に千びきの毛蟲』より



子供

 子供は無邪気なところもあるが、大人とまったく同じ心の動きもあって、そのアンバランスが厄介である。いまでも鮮明に おもい出すのは、まるで嘘のようなことだが、三年生のとき小学校へ行く坂道をランドセルを背負って登りながら、 「人生っていうのはツライもんだなあ」としみじみ心の中で呟いたことだ。したがって、はやく大人になりたい、と焦っていた。

『石膏色と赤』より



五里霧中

一見、この語感とは無関係に見える吉行さんであるが、小説を書くときにこのような状態に陥ることがしばしばであった。

そんなときは実際に唸り声をあげることも、これまたまたしばしばであったとか。

打開策はというと・・・次のように言っている。

 こういうとき支えになるのは、これまでも何十回も切り抜けてきたことだから、たぶん今回もなんとかなるだろう、 こういう考え方だけである。

『樹に千びきの毛蟲』より


アゲアシをとるつもりではなく、その「出来事」が初めての場合はどのように対処したのか知りくなりますなぁ。
吉行流には、どのような姿勢をとるのか。うーむ。



近藤啓太郎

1920年(大正9)3月25日生まれ。
2002年(平成14)2月2日、胃ガンのため逝去。享年81歳。
出身:三重県四日市。

第三の新人の1人。
東京美術学校(現在の美大)を卒業後、千葉の鴨川に移り住み、漁師の生活をしながら彼らの生活をダイナミックに描き出した作品を 発表した。

その後も鴨川に住みつづけた近藤氏は愛犬家としても知られ、柴犬などをコンクールに出したりもしていた。

安岡章太郎氏が飼っていた 紀州犬コンタも、近藤氏経由で譲り受けた犬だったという。

吉行さんが、近藤氏に会う前に作品から推測した近藤像は次のとおり。

 「あれはね、小説を書くときにはまず狭い部屋を掃き清め、明窓浄机、机の前に正座して一字一画もゆるがせにせず、原稿用紙に 字を埋めてゆう、という、まあそういったタイプのヤツだ。」

『私の文学放浪』より


はたして実際に会ってみると、「赤銅色の皮膚をした背の高い男」「その眼は三角にとたって、悪光りして」おり、 吉行さんの胸を指でつつき「あんたは誰ですかあ?」と言ったとか。吉行さんはその瞬間、「や、これはいかん」と 思ったそう。

そんな第一印象にもかかわらず、その後すぐに吉行さんと近藤氏はすっかり親しくなる。

鴨川から干物やライターなど、いろいろな物を 送ってくれたという。

 

鴨川という土地が湿気のために体に合わないと分かっていながらも、近藤氏の紹介で病院に行ったり、 近藤氏とコイコイをしたり語ったりしに出かけていたようだ。 


そうそう、吉行さんの最初に抱いた近藤氏像は「当たっていないものではない」らしい。



こんにゃく

吉行さんが赤ん坊の頃から好きだった食べ物。


這って行ってはこんにゃくを食べるので、気味悪がった母親にこんにゃくの皿を隠されたとか。

大人になっても好きで、色の黒い ゴロゴロした塊のものをちぎって煮たこんにゃくを好んだという。

赤ちゃんの頃から酒飲みの兆しがあったと見なすか、ゲテモノ好みと見なすか、そこが問題です。