父親

「父が死んだときに、正直なところホッとする気持も強かった」と書いているとおり、エイスケと吉行さんの関係は、 本人いわく「異常な父子関係」だったらしい。


 かなり大きくなるまで父親の正体が分からなかった。父親とは時折家に戻ってきて、わけも分からず怒鳴り、 またいなくなる迷惑な存在であった。この気持は、中学5年生になっても同じであった記憶がある。

『軽薄のすすめ』より


その関係についての考察を『砂の上の植物群』で行っており、吉行さんは「この作品は亡父からの卒業論文のような気持も 含まれている。この作品を書いて、私は完全にふっ切れた」といっている。


著作から考えて、吉行さんは父・エイスケにコンプレックスを抱いていたと言えるだろう。

 

いやそうではない、母親を 困らせる存在に困ったのだ、むしろ母親コンプレックスである。

 

普通である、一般的に息子というものは父親を意識し、 ライバル視し、越えようとし、越えたときには複雑な感情を持つものだ、という意見もあるかもしれないが。

正体が分からなかったとはいえ、エイスケの姿は実は的確に吉行少年の意識にしっかり埋め込まれており、 いくつかの作品からは若くて溌剌とした父親に対するライバル心ともとれる行動が描かれている。

 

それは青年になってもしかり。 「エイスケさんは凄かった、淳之介さんなんて足元にも及ばないよ」というエイスケを知る人々の話も吉行さんの耳に 入っており、自分が見た生前の父親のイメージだけではなく、他人から受け取る「父親」も吉行さんのライバルと なっていたと推測される。



腸チブス

吉行さんが16歳のときに罹った病気。

隔離病棟に入れられ、約半年の入院生活を強いられた。(6月~11月。退院と同時に休学し、 翌年の4月に復学している。)

この病気は回復期が肝心で、食べ物に注意しないと「米粒ひとつで腸が破れ死ぬ」と言われていた。

普通の病人ならば 心身ともに安静にしているところだが、吉行さんは、体力をつけさせようと父親がやってきて口に肉の塊を押し込んだりするかもしれない、と内心穏やかではなかったという。

 

実際には、7月にエイスケは急死しているので、吉行さんの腸が 肉塊によって破られることはなかった。

腸チブスと発覚する前のことであろうか、40度くらいの熱を出している吉行さんを見た薬嫌いの親(エイスケか?)は、汗を出したら治るといって吉行さんを布団蒸しにしたらしい。

 

吉行さんは後に「これは行き過ぎだったね」 (『石膏色と赤』)と言っている。