同窓

年代のせいか、はたまた吉行さんの性質からか、「大学の同窓というのには何の関心もないが、旧制高校が同じとなると親近感がある」(『石膏色と赤』)らしい。

 

母校が東大だから、ということも一因かもしれませんが。

ちなみに「同窓」とは次のような人々。

麻布中学:フランキー堺氏、小沢昭一氏、加藤武氏、北杜夫氏、山口瞳氏、奥野健男氏
旧制静岡高校:小川国夫氏、中曽根康弘氏
東京帝国大学:阿川弘之氏、大江健三郎氏、梅崎春生氏



東京大空襲

1945年5月25日、吉行さんはこの空襲によって麹町の自宅を焼失した。

避難するとき、食べ物も着替えも持ち出すことなく自作の詩50篇を書いたノートとドビュッシーのレコードを持ち出した という吉行さん。

 

この詩は、出来は悪くないけど良くもない、といったものだったらしいが、「ひそかに隠してある」 (『私の文学放浪』)とか。

驚くべきは、吉行さんのカン。

住民が靖国神社に避難すべく走っているとき、吉行さんは「どうしてもその方向に足が向かず、 反対方向の小公園に逃げた。私の家の三人のほかには、人の影は一つも見えなかった」(『犬が育てた猫』)。

結果は、「その公園を頂点とした楔状の部分が、奇跡的に焼け残っていた」(『犬が育てた猫』)。

 

吉行さんの運というか、 カンというか、この空襲だけではなく人生のいたる所に冴え渡る勘が感じられる。

ここらの部分は要チェックかもしれない。



東京帝国大学

吉行さんが学んだ大学。

現・東京大学。

1945年、21歳のときに文学部英文科に入学。


以来、1度も授業料を払わずに、1947年、23歳のときに中退、というか6年後の1951年の3月に授業料未払いのため 除籍処分になっている。

 

掲示板で未払いを告知されていたことを友人から聞いても、知らん顔の吉行さんであった。

3年目(当時は3年で卒業)で21単位取れば卒業できるところ、あと7単位(記述によってまちまち、4単位説もあり) という段階だったらしいが、アルバイトをしていた雑誌社(新太陽社)の正社員となるため通わなくなった。もったいない?

安岡章太郎氏いわく「マイノリティーをすすんで選びたがる」からした選択とのこと。



十返肇

とがえりはじめ。
吉行エイスケの友人で作家。

エイスケのところに18歳くらいから訪れていて、子供の頃の吉行さんの記憶にも残っているという。

エイスケの急死後、 しばらくの間は会うこともなく時が過ぎていったが、吉行さんが23歳のとき、「世代」に掲載されていた吉行さんの作品を見た 十返肇氏から連絡が入り、以後、親しく付き合うようになった。

 

吉行さんいわく「少々手のかかる親しい親類の叔父さん」らしい。

この十返肇氏に激励されて書いた『薔薇販売人』が、吉行さんの処女作。

『藁婚式』を書いた後、50枚くらいの作品を書かないかとすすめられ、3ヶ月ほどかけて書いた作品が上の『薔薇販売人』だった。

余談ですが、親戚の親友でした。

 

六高時代の綽名は「じっぺん」。

当時から相当な人だったそうです。

※訂正です。「六高時代」ではなく「高松中学時代」の間違いでした。
ご指摘メールをいただきまして調べてみました。

その親戚は亡くなっているので、娘にあたる人物に確認を取ってみたところ中学時代ということでした。

いやぁ、親戚が生きていたら聞いてみたい事が山積みです。



時計

腕時計を見る癖があったという吉行さん。

5分に1度は見ていたというから、かなり頻繁だといえよう。

女の子にその癖を指摘されて閉口することもしばしばだったとか。

芥川賞受賞の記念品の時計は、ずっと箱に入れて大切に保管していたという。

吉行淳之介文学館にも、きちんと飾ってありました。

ちなみに、「世界の腕時計№34」に吉行さん愛用の「オメガシーマスター」の写真が載っています。



読書

少年時代は、少年倶楽部や講談本ばかり読んでいた吉行さん。

岩波文庫を読んでいる学生を見ると「キザな奴だ」と 嫌悪していたという。

それが、腸チブスにかかって入院生活を余儀なくされ、その結果、一年休学という事態になったとき、あぐりさんの一言がきっかけで 読書を楽しむようになった。

高校受験の頃、苦手にしていた岩波文庫に興味を持ちはじめ、『メゾン・テリエ』や『脂肪の塊』など、本との出会いを経験した。

しかし、読書を思い切り楽しむためには、まずは高校に入らなくてはならないと感じた吉行さんは、一時は受験勉強に熱心になり、 高校入学と同時に、「堰を切ったように乱読の時期に這入りこんだ。」(『私の文学放浪』)という。

といって、なにもかも読むということはなく、乱読の対象は文学書に限られた。

そして、好き嫌いも当然でてくることになる。

 

嫌いなタイプというのは、次のとおり。


 人生の意味を探求するという姿勢のあからさまなものは、いわゆる誠実な身振りが我慢ならなかった。いわゆる誠実な身振りは、 しばしば自分のエゴイズムや感傷を見落としていて、無性に腹立たしい気持にさせられた。底の浅い誠実さと、当時の軍国主義とは きわめて近しい関係にあったので、その嫌悪もあったとおもえる。

『私の文学放浪』より


その頃、吉行さんに大きな影響を与えた本が、『トニオ・クレーゲル』と『梶井基次郎作品集』。

アンケートを受ける度に、この2つの作品を挙げていた。



ドビュッシー

吉行さんが好んで聴いていた作曲家。

 

吉行さんは、東京大空襲のとき、布団や衣類は持ち出さず、腕に抱えて逃げたのはドビュッシーと ショパンのレコードだった、というほどのドビュッシー好き。

 

特にピアノ曲が好きだったようだ。

200枚ほど持っているレコードの 半分がドビュッシーのものだったというから、かなり好ましく思っていたとみえる。

とくに、前奏曲集ⅠとⅡがよい、とのこと。

 

同じ曲でも演奏者によって出る音が違うので、いろいろの演奏者の レコードを持っていて、いろいろな音を楽しんだいた。

 

「古いところではコルトーとか、安岡章太郎が もってきてくれたリバッティとかハースなどいろいろある。東京大空襲のとき持ち出したドビュッシーは コルトーだったが、(略)」(『樹に千びきの毛蟲』)などなど。

 「しかし、そういう時間は、一日のうちごく少量しか掴めない」と言っているように、部屋にこもって 音楽三昧、という生活とは無縁であった。

 

ここにも、病気、体力が関係している。


ちなみに、持って逃げたレコードの内容とは、ドビュッシーのピアノ曲集のレコードアルバムと、ショパンのワルツ全曲の レコード。

エボナイトのものだった。



トリスタン・ツアラ

高齢で死んだダダ。

 

若くして自爆してしまう宿命をもつダダにしては珍しい例ともいえる。

そのせいか、吉行さんはツアラの生涯を 調べたいと著書で語っている。



『泥棒日記』

ジュネの作品。

 

千葉県佐原での療養中に読んだという。

これを読んで、今まではバラバラだった思考の断片がひとつに まとまりつながった、といういわくつきの小説。

といって、作品の内容やスタイルから影響を受けたわけではなく、「芸術的昂揚が、私自身の文学についての縺れた糸を、 うまい具合にほぐす糸口が見付かった心持にさせた」(『私の文学放浪』)というわけだった。