西野愿城

にしのげんき。
吉行さんが1949年(24歳)のときに使ったペンネーム。
この名前で『モダン日本』に『紙きれ-カチューシャ俘虜記』を発表した。

どうして「愿城」を選んだのか不思議ですよね。

現在、由来を調べているところです。

という記述のまま数年。

 

先日、親切な吉行ファンの方からメールを頂戴し教えていただきました。

(Tさん、ありがとうございました)

『紙きれ-カチューシャ俘虜記』というのはシベリアからの復員者から話を聞いて、吉行さんが代作をし、 『モダン日本』に掲載された作品。そして、この復員者の本名である「西野愿城」で発表になった、というわけです。

なるほど、吉行さんが自ら選んだペンネームにしては「はて?」と思うところが多かったので、 なんとなく納得ですな。

それにしても、このことは『とにかく、吉行淳之介』に載っていたらしい。自分のサイト名にするほど 愛読しているはずの本なのにこれじゃ・・・・・・老化が深刻です。



日本大学(芸術科)

吉行エイスケ、吉行淳之介、と父子で講師を勤めた大学。
エイスケは昭和8年の前後3年に、吉行さんは1964年度の1年間講師をした。

吉行さんが使ったテキストは、恩師・岡田弘氏の翻訳した『ダダの歴史』。

少し話が硬かったためか、聴講生は少なかったという。(もったいない)



日本酒

日本酒は体内に残っている時間が長く感じる、という吉行さん。

細胞の間をゆっくりゆっくり通り抜けようとするので、翌朝まで 体に残っているように感じる、というのだ。

体質にもよるけれど、酒飲みの方々なら実感されることでしょう。

そういう方には、吉行さんはウィスキーに切り替えることを勧めていましたな。

たしかに、酔い方も、翌日の具合も違ってきます。

 

独自の調査によると、赤ワインも残留を感じますな。

白はいいんですがねぇ。



入院

吉行さんの入院経験を、ざっと年表風にまとめてみると、次のようになる。(記入漏れ多々あり)

1940・16歳:腸チブス
1947・23歳:ゼンソクの治療のため手術(京大病院に1ヶ月)
1953・29歳:療養生活(千葉県佐原に3ヶ月)
         結核(清瀬病院に約1年)
1968・44歳:入退院をくりかえす
1984・60歳:白内障(数日)
1989・65歳:入退院をくりかえす
1993・69歳:入退院をくりかえす

佐原の病院では入院というより別棟での一人暮らしだったため、安岡章太郎氏が泊まりにきたりして陰惨なものではなかったとか。

清瀬病院の入院となると、大部屋で25人前後の患者との共同生活になり、その様子を「戦後においての軍隊生活」 (『私の文学放浪』)と表現している。

 私の神経に軋る事柄が沢山あったが、すくなくともトマス・マンの小説に出てくる療養所の文化人みたいには、 なりたくないとおもい、ガラ悪く積極的に毎日を送った。

『私の文学放浪』より


このとき、吉行さんが好んで選んだ話題が猥談。

性格も年齢も階層も超えた共通の音楽のようなものとして、猥談をつうじて コミュニケーションをはかり、実際にケンカがなくなったというから効果は絶大。



ニューオータニ

千代田区紀尾井町にあるホテル。

最寄り駅は、「四谷」「永田町」「赤坂見附」。

 

仕事場として利用していた時期もあったが、吉行さんが怒って絶縁状を書いたというホテル。

めったなことでは怒らない吉行さんを怒らせたのだから、よっぽどのことだったのでしょう。

その後、怒りの方は落ち着けた ものの、絶縁状に書いたことを実行すべくこのホテルを利用することはなかった。

 

ある意味、すごいホテルです。

→ニューオータニのHPにGO!