吉行さんの歯は悪く、50代で総入歯に近い状態になっていた。

腸チブスで高熱(しかも長期間)を出したときにホーロー質が溶けたのが原因、とのことだが、父・エイスケさんも30代で 総入歯に近い状態だったことを考えると遺伝なのかもしれない。

枕元に置いてあるコップに入歯を入れて寝る、と言う吉行さんに、山口瞳氏が入歯容器をプレゼントしたというエピソードも。

 

後日、 その山口氏につい「嫌味な物を」と言ってしまい、後悔してお詫びの手紙を書いたとか・・・なんとも。

対談でも、 しきりに詫びというか、こだわっていました。

そういえば、歯が悪いのが気になって若い女の子との恋愛を躊躇する、という作品がありましたねぇ。

 

入歯ってバレるんでしょうか。

パッカパカしてれば分ると思いますが・・・やっぱり、気分でしょうか。





吉行家のお墓は、岡山市から車で30分ほどの町(金川町草生)にある。

信心深いとはいえない吉行さんだが、墓石の裏に刻まれている俗名などを読んでいると、しばし感慨に捉えられることが あったようだ。

「顔も見たこともない先祖の性格や表情などの一部が、私のからだ(注:身+區)の中に伝わっていると 思うからだ」と著作の中でいっている。



萩原朔太郎

高校休学中に乱読を通して出会った作家。

萩原朔太郎のエッセイを読んでいるうちに、吉行さんは自分の性質と自分の場所を再確認し、生きる希望が持てるようになったという。

自分の中に存在する「ものを書く才能」に気付いたキッカケを次のように話している。

 朔太郎はそのエッセイの中で、詩人という種類の人間がどういうものであるか、詳しく書き記している。そして、私が自分自身を 持てあます原因となっている数々の事柄は、そのまま特性として挙げられているではないか。(中略)私は、詩人になれる、と おもったわけではない。そんなことよりも、私のような人間にも、ちゃんと場所が与えられていたという発見のよろこびである。

『私の文学放浪』より


その後、短篇を4編ほど書いた吉行さんいわく、「書きながら、私は自分の躯(区のメは品)の中に、亡父の血を確認していた。 父親をありがたいとおもったのは、このときが最初である」(『私の文学放浪』)。

この作品は、ひらめきを感じる部分があったもののすぐれているとは思えず、結局は捨ててしまったという。

ちなみに、題名は『蟹』 (短篇)と『黎明』(100枚のもの)。

なんとも惜しい話ではありませんか。



白内障

昭和51年、吉行さんが52歳のときに正式にもらった病気の名前。
最初は右目を患い、そのときすでに左目にも兆候が出ているという診断だったそうで、カタリンという目薬を点眼しつつ執筆を続けた。

さて、このカタリン。

 

白内障の進行を遅らせるという表示があったにもかかわらず、吉行さんの視力は1年後に0.7から0.1に 落ちており、この薬は何の効果もなかった、と著書に記している。

 

のちに、近藤啓太郎氏が懇意にしている病院の院長から聞いた カタリンの効果はない、という情報を得た後、2年くらいは使わなかったそうだが、また使うようになったとか。

しかも、1ヶ月に10個は使っていたという。

治療薬とも進行防止剤とも思っておらず、目薬として使用していたようだが、 その心理となると、次のとおり。

 それならば、ふつうの目薬でいいわけだが、そこが微妙な患者心理で「カタリン」のほうが目薬として自分の眼にふさわしい、 とおもってしまう。(『犬が育てた猫』)

さて、この白内障が進行し、黒目が遊ぶようになり、手術にいたるわけでして、その模様を描いた作品が『目玉』。



羽衣

吉行さんお気に入りの煎餅。

バーで出されて以来のファンだったという。

『鬼平犯科帳』(池波正太郎)に出てくる「羽衣煎餅」は、「砂糖のかかった薄焼き」タイプだが、吉行さんのお気に入り、しかも、 バーで出てくるとすれば、「四角い薄い醤油味」タイプかと推測されます。

 

とすると、かきもちか?

薄さといい味といい、すべて吉行さん好みであったとか。

求めようにも数年間は体調不良で思うように外出ができず、やっと出かけられるようになってから、かなり思い詰めてデパートに 向かった吉行さん。

 

にもかかわらず、見本品しか残っていなかったため煎餅を売ってもらえなかった。

そのとき、吉行さんの口から 「責任者を呼べ!」という世にも恥ずかしいセリフが出たとか。

 

アルバイトらしき店員の態度にもハラが たったようですが・・・。

ちなみに、この煎餅は薄いので、入歯でもラクに食べられるそうです。



パジャマ

普段の服装は、黒が基調、色をつけたしても赤、という吉行さんだが、パジャマとなると突如として派手になる。

阿川弘之氏とコイコイをしていたときに着ていたとして有名なのは「赤と藍のストライプ」で、その姿は刑務所の囚人を 思わせたとか。

囚人がコイコイ、ガラ悪いですな。

また、ホテル滞在中に地下のショップで買ったのは「サーモンピンクのパジャマ」と「赤と紺のストライプのガウン」であった。

赤、黄色、赤と紺のストライプ、サーモンピンクなどなど「いっぱい持っている」と言うくらいだ、 本当にいっぱい持っていたのでしょう。

ウチとソト、ハレとケ、ホンネとタテマエ?



パチンコ

吉行さんがパチンコ好きなのは、この単純なゲーム自体も好きなのだろうが、一人になれる場所を求めていた、ともいえよう。

パチンコ店での時間は、雑踏の中の孤独とも言い換えられる。

 

漠然と玉を眺め、漠然と物思いにふけり、また漠然と玉を打つ。

その単純作業がストレス解消なるのはうなずける。

ただし、吉行さんが最初になじんだパチンコとは、現代の様式とは違ってくる。

 

まず、椅子はなく、立ったままの状態で玉を打つ。

そして、玉を打つのもひとつひとつ自分の右手でレバーを弾いていくタイプなのである。

 

もちろん、パチンコの様式はその後 変わっていって、晩年は椅子に坐って打ってはいたというが。

立ったままの形式の方が好みではあっても、やはりパチンコは パチンコ、座る形式のパチンコも好んでいたようです。

そういえば、パチンコ文化賞という賞も貰っていましたねぇ。

腕前は、タバコを定価くらいで買う計算になっている ということなので、セミプロレベルですな。

そんなパチンコ店で、吉行さんにとって困った問題がひとつ。

 

それは、ベビーカーに乗せられた赤ちゃんの登場である。

なにも、 うるさく泣き喚くからという理由ではなく、弾けた玉が赤ちゃんの目玉に命中したり、口の中に入りはしないかと気を使うから、 でありました。

そして、暗黙の了解というかルールもあった。

 

壱・知人と連れ立って行ったとしても入口で別れ、別々の席に座り、 帰りには声もかけない。

弐・隣の人には声をかけない。

参・間違っても台を叩いたりしない、3~4台に影響を及ぼしてしまうし、 なによりも見苦しい。

肆・余った玉に往生しても、無闇に人にあげたりしない、不愉快になる人もいるから。

 

などなど。

いかにも。



ハッスル(同義語:ファイト)

吉行さんが好きではない言葉。

響きも内容も好ましくないらしい。

 

「鼻息フウフウという音から発生したものだろうと 想像できる」その感じも、好きになれない理由らしいが、吉行さんには絶対に似合わないであろう言葉なので説得力がある。 

 

「がんばっているところが分かりやすい」点も好きになれない理由のひとつとのこと。

現在は死語。



「?」と「!」

小説を書き出して25年目に、日本語の中に混じる洋風の「?」と「!」が気になりだしたという吉行さん。

 

それからというもの、 新しい原稿はもちろん、文庫化や再版のときには、これらを取り去る作業をしていたという。

「・・・・・・」に思いを込めるのことを好まないとも言っていたが、なにか関係があるかもしれない。



花札

 花札というのは、よいものである。原色を使った札の色合いが、神経の末端を適当に刺激してくれる。四季の風物に かたどった図柄も、味わいがある。それに、なによりも札と札とを打ち合わせるときに発する、あの硬い冴えた音がよい。 トランプではあの音は出ない。あの音が神経に活を与えてくれる。それに、この競技はいわゆるハッスルしてカッカと逆上すると、 必ず負ける。そこのところも、はなはだよろしい。

『軽薄のすすめ』より

そして、カッカと逆上して必ず負ける(?)阿川弘之さんが花札の相手でありました。



『薔薇販売人』

吉行さんの処女作。

「この作品で、はじめて散文が書けた」(『私の文学放浪』)と言っており、それまでの作品はわざわざ「詩の領域」と 断りを入れたりしている。

初めて活字になったのは「真実」という雑誌。

しかし、薔薇が薇薔(ラバか!)となっていたり、淳之介が淳之助となっていたりして、 「吉行淳之介の薔薇販売人」というものは存在しなかった。



阪神タイガース

球団創立以来の阪神ファンだった吉行さん。

「あまりにファン歴が長すぎて、むしろ冷静になってしまって」いたらしい。

「巨人憎し」の気持もあったとか。

吉行さんが好きだった選手の1人に新庄元選手がいる。

メジャーで活躍していた新庄選手を見ることができていたら、きっと喜んだでしょうね。

そして、2003年のリーグ優勝については、どのような感想を抱いたのでしょうかねぇ?

優勝にいたるまでの月日は 無事に過ごせたのでしょうか。